contrapunctusのブログ

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浦壁先生と音楽における構造について

浦壁先生の即興の組み立て方についてのお話が興味深かったので、関連する内容とともにここに自分なりにまとめておく。

即興というのはそもそも自分の頭の中にあるパターンの組み合わせなので、限られた手数でいかにやりくりするかということに尽きるのだが、先生の場合はまず(ヤマハ的な即興における)モチーフの断片を反復しつつ(これは忘れないようにするためらしい、かつてはヤマハの即興のモチーフは暗記だったとか、なんとも恐ろしい話だ)、ゼクエンツの使用によってひたすら転調しながら延々と進むというのが基本指針、それを器用にやろうとするだけでも結構大変だが、さらにそれを「同じことの繰り返しであるということがバレないようにする」ため、偽終止を使ってみたり音域や強弱を変えてみたり間をとったりすることで諸々のフレーズを生成していく。しかし、やはり「要は同じことをやっているに過ぎない」のだという。おそらく、その基本的なコンセプトを展開し実践する上で、転調の技術とか付加音や転移音による潤色とかで柔軟性・多様性が生まれるので、そのあたりが肝というか腕の見せどころなのだと思う。

ところで、バッハのトッカータというのは即興的な側面が強く、時間の構成というのも形式的であるというよりはむしろ体感に立脚した上での生成的なものであるということができる。たとえばBWV912のAllegroの部分は、さまざまな要素が出現し増えた断片の反復とゼクエンツによる分節でいかに単調さを回避するかというプレイヤー的な直感に基づいて書かれていると考えると、とてもしっくりくる。

浦壁先生の音楽的構造に対する眼差しは多様であるとともに柔軟である。しばしば我々はアナリーゼの際に、アプリオリな形式原理を作品の中に見出すことで満足し、音楽学の論文よろしく動機を書き並べて連関を観察することや登場する諸和音を記号体系の中に還元することをもって分析としてしまいがちである。そのような、ある種スタティックともいうべき分析も勿論重要なのだが、特にプレイヤーにとって音楽的な構造を把握するということは、作曲家の生成の追体験に立脚するというスタンスにおいてもなされるべきであるように思う。また、個々の作曲家におけるエクリチュールの特性(たとえばショパンにおけるバッハ的なゼクエンツの多用と半音階的なパッセージによる変幻自在な転調)を理解し演奏や聴取においてはそれを味わうことも不可欠である。異なる作品・作曲家の同じ記号表現(言語で言えば同じ単語)が企図する諸効果は、しなやかな身体性とともに本質的に展開するものをつぶさに観察しつつ枝葉末節に囚われない眼差しにおいて、作品の差異化の運動の下に十全に表現されうる。我々にはなすべきことが多い。