contrapunctusのブログ

思ったことを書きたいが故の限定公開。

和声の考察1

 和声に関する西尾先生の講義が興味深かったので、それを踏まえた上で和声について考えてみることにする。なお、ここでの考察は(先生の言葉が元になっているにせよ)僕によるものであり、従って改善の余地のみならず初歩的な誤りが含まれている可能性があるので、それらに気がついた方は指摘していただけると大変ありがたい。今回は島岡和声の3巻の課題25の1を取り上げる。

 さて、このソプラノ課題を実践する場面を想定してみよう。フレーズを分析すると、黄色の線で区切ったようになると思われる。星印をつけたところではこの曲の中で最も印象的な転調が想定されるが、それとともにフレーズの長さの周期性が変化していることがわかる。またフレーズの区切れ、すなわちフレーズの開始点(=終着点)が1拍目と2拍目の間に置かれており、フレーズの造形が曲全体を通してアウフタクト的な様相を持っていてそれが推進力を与えていることがわかるので、それを活かした和声付けが期待される。たとえば1小節目の頭のHは直前のアウフタクトから導かれているが、これはフレーズの構造を考えればそこでどかっと腰を下ろすようにならないほうがよく、和声音ではなく倚音として捉えた方が良い(自分は課題を実施した際、安直にG DurのIの基本形をぶつけてしまった)。実施例では1小節目から2小節目にかけてのアルトで導音が解決していないのも興味深いが、おそらく聴覚的な違和感は少ない。2小節目の同種短調への進行を置くのが音楽性、半音の生む音楽的な引力をうまく利用していると言えるのではないか。5小節目のフレーズには明らかな盛り上がりがあり、それに頻繁な和音交替と内声の動きが対応している。7小節目でIIの短三和音を置くと6小節目から7小節目にかけて(間接)連続5度が生じやすいので注意。7から8及び8から9小節目のソプラノに4度の上行を見つければ属七の3転からIの1転だとわかる(これは和声課題の基本でもある)。10小節目の2拍目にGのドッペルの下方変位を置くと前の調性からの異名同音の読み替えで自然な流れができ、必然性が生まれる(等響異和音)。

 ミクロな音楽的構造とそこへの眼差し。何が音楽の流れを生み出すのか、音楽の流れとは因果的関係、すなわち論理性の網、潜在的なリズム・和声リズムと拍節の関係。考察すべきことが山積みである。

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和声の考察1

 和声に関する西尾先生の講義が興味深かったので、それを踏まえた上で和声について考えてみることにする。なお、ここでの考察は(先生の言葉が元になっているにせよ)僕によるものであり、従って改善の余地のみならず初歩的な誤りが含まれている可能性があるので、それらに気がついた方は指摘していただけると大変ありがたい。今回は島岡和声の3巻の課題25の1を取り上げる。

 さて、このソプラノ課題を実践する場面を想定してみよう。フレーズを分析すると、黄色の線で区切ったようになると思われる。星印をつけたところではこの曲の中で最も印象的な転調が想定されるが、それとともにフレーズの長さの周期性が変化していることがわかる。またフレーズの区切れ、すなわちフレーズの開始点(=終着点)が1拍目と2拍目の間に置かれており、フレーズの造形が曲全体を通してアウフタクト的な様相を持っていてそれが推進力を与えていることがわかるので、それを活かした和声付けが期待される。たとえば1小節目の頭のHは直前のアウフタクトから導かれているが、これはフレーズの構造を考えればそこでどかっと腰を下ろすようにならないほうがよく、和声音ではなく倚音として捉えた方が良い(自分は課題を実施した際、安直にG DurのIの基本形をぶつけてしまった)。実施例では1小節目から2小節目にかけてのアルトで導音が解決していないのも興味深いが、おそらく聴覚的な違和感は少ない。2小節目の同種短調への進行を置くのが音楽性、半音の生む音楽的な引力をうまく利用していると言えるのではないか。5小節目のフレーズには明らかな盛り上がりがあり、それに頻繁な和音交替と内声の動きが対応している。7小節目でIIの短三和音を置くと6小節目から7小節目にかけて(間接)連続5度が生じやすいので注意。7から8及び8から9小節目のソプラノに4度の上行を見つければ属七の3転からIの1転だとわかる(これは和声課題の基本でもある)。10小節目の2拍目にGのドッペルの下方変位を置くと前の調性からの異名同音の読み替えで自然な流れができ、必然性が生まれる(等響異和音)。

 ミクロな音楽的構造とそこへの眼差し。何が音楽の流れを生み出すのか、音楽の流れとは因果的関係、すなわち論理性の網、潜在的なリズム・和声リズムと拍節の関係。考察すべきことが山積みである。

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浦壁先生と音楽における構造について

浦壁先生の即興の組み立て方についてのお話が興味深かったので、関連する内容とともにここに自分なりにまとめておく。

即興というのはそもそも自分の頭の中にあるパターンの組み合わせなので、限られた手数でいかにやりくりするかということに尽きるのだが、先生の場合はまず(ヤマハ的な即興における)モチーフの断片を反復しつつ(これは忘れないようにするためらしい、かつてはヤマハの即興のモチーフは暗記だったとか、なんとも恐ろしい話だ)、ゼクエンツの使用によってひたすら転調しながら延々と進むというのが基本指針、それを器用にやろうとするだけでも結構大変だが、さらにそれを「同じことの繰り返しであるということがバレないようにする」ため、偽終止を使ってみたり音域や強弱を変えてみたり間をとったりすることで諸々のフレーズを生成していく。しかし、やはり「要は同じことをやっているに過ぎない」のだという。おそらく、その基本的なコンセプトを展開し実践する上で、転調の技術とか付加音や転移音による潤色とかで柔軟性・多様性が生まれるので、そのあたりが肝というか腕の見せどころなのだと思う。

ところで、バッハのトッカータというのは即興的な側面が強く、時間の構成というのも形式的であるというよりはむしろ体感に立脚した上での生成的なものであるということができる。たとえばBWV912のAllegroの部分は、さまざまな要素が出現し増えた断片の反復とゼクエンツによる分節でいかに単調さを回避するかというプレイヤー的な直感に基づいて書かれていると考えると、とてもしっくりくる。

浦壁先生の音楽的構造に対する眼差しは多様であるとともに柔軟である。しばしば我々はアナリーゼの際に、アプリオリな形式原理を作品の中に見出すことで満足し、音楽学の論文よろしく動機を書き並べて連関を観察することや登場する諸和音を記号体系の中に還元することをもって分析としてしまいがちである。そのような、ある種スタティックともいうべき分析も勿論重要なのだが、特にプレイヤーにとって音楽的な構造を把握するということは、作曲家の生成の追体験に立脚するというスタンスにおいてもなされるべきであるように思う。また、個々の作曲家におけるエクリチュールの特性(たとえばショパンにおけるバッハ的なゼクエンツの多用と半音階的なパッセージによる変幻自在な転調)を理解し演奏や聴取においてはそれを味わうことも不可欠である。異なる作品・作曲家の同じ記号表現(言語で言えば同じ単語)が企図する諸効果は、しなやかな身体性とともに本質的に展開するものをつぶさに観察しつつ枝葉末節に囚われない眼差しにおいて、作品の差異化の運動の下に十全に表現されうる。我々にはなすべきことが多い。

JJ

先生、正史への欲望は馬鹿げているんでしょうか?いや、そんなはずはない!俺の終局の語彙は神だ!価値だ!喜びだ!いや、そんなはずはない。ΤέλοςのVocabulaireは無だ。オメガ!あれ、オペラ座は爆破されたかな?シェーンベルクは私が殺しておいたがな。そういえばあいつの最後の作品はオメガといったな。No ears. ルマルトーサンメートルだぞ、にいちぇ?ぶるとん?どっちでもないかな。コレージュドパリに呼んだのはベラスケスで一つ当てた天才だった。馬鹿げた真似はよせ、今は芸術も生も美も目的も消えたんだ、ディストピアにしては出来が悪いがね。マトリクス?好きなのはレミゼラブル、人間は人類史のスケールで紅茶に浸したマドレーヌを実践するのか?我々の形相の形相は?朕は大審問官だぞ、万歳!引用符付きのグッドネスはまだ完成してないの?それは困るなあ!歴史の終わりの終わりの終わりだというのに。終わりといえばウロボロス、フィネガンスじゃなくてフィネガンズだって、全然違うぞ意味が。ミセス・ヴァージニア・ウルフは何と言っていた?ワイルドの逆説は卒業したってか。これはすごい。抹消された快楽を取り戻せ!それはおつむの出来によるなあ。純粋にはしり出たのは一つの謎である、塔で始まって塔で終わるのか。

9.03

午後、一人でふらっと丸の内に出かけた。去年の夏休みに無気力の中散々訪れていたGARBでふわふわなケーキもどき及びホットのラテを注文、かつて存在していたセットがなくなっていて費用が想定より余計嵩んだし、思い出の反芻を現実的に行ったものの、思い出の持っている不可逆性の魅力やノスタルジーに固有の何とも言えない感覚を味わうことはなかった。

結局、思い出となることなど初めから思いもしなかった行為や出来事が時間が経つとともに特有の象徴的機能を帯び、それがノスタルジーの源泉となるのだろう。現実において思い出を反復することで認知的享楽に到達しうるのは、それが友人といる場合に限ると考えられる。